ルビ振りの是非
俳句における「ルビ」の問題は難しいですね。ネットで検索してもその是非を熱く論じているぺージが少なくありません。文字数に制限のある俳句においては慣例として俳句独特の読み方(読ませ方)があります。
掌(てのひら)を「て」、佇(たたず・む)を使って「佇(た)つ」、翔(しょう)を使って「翔(と)ぶ」、 亡妻→つま、温泉→ゆ、唇→くち、宇宙→そら、夕光→ゆうかげ、炭鉱→やま、火山灰→よな
いずれも本来はそうは読まないのでこういう時には「ルビ」を振ったほうが親切だと思いますが極度にそれを嫌う指導者も多いです。俳人ならそれくらい読めるだろう、前後のことばの並びから推し量ればだいたいわかるだろう…というのがその理由です。一方俳句をやらない人、興味のない人にも作品を鑑賞してもらいたいという考えの人もいます。そういう人は「ルビ」を多用する傾向があるようです。
前者は自分の価値観だけでそう主張しているようにも思えますが、あながち間違っているとも断言できません。人によって考え方が違うのは当たり前です。私はあまりこだわらないほうなので作者の意図を尊重していますが、経験上「ルビ」の多さ、少なさでなんとなくその人の考え方がわかるような気もしています。
「ルビ振り」が習慣的になるとつい振らずにはおらなくなります。普通に読めそうな文字にまでルビが振られていると、それを嫌う人には選んでもらえない…ということもあるのでかえって逆効果ですね。