虚子選と青畝選の違い
三千の俳句を閲し柿二つ 子規
私の尊敬する虚子先生と青畝先生は正岡子規の流れを汲む師弟関係になるのですが作風は少し違うところもあります。けれども多くの弟子を導き優れた俳人をぞくぞくと育てられたという指導者としての実績には共通点が多いです。その特徴は作者としての御自身の流儀を押し付けるのではなく
“個性を見出してそれを伸ばす”
という指導法にあります。
正しい俳句レッスンというのは知識を学ぶことだけではありません。指導者の選を信じること、忍耐し継続することで理屈ではなく 「感覚」 としての能力を育てていくのです。
“もっと手っ取り早く上達したい”
という声も聞こえてきそうですが知識先行の学びからは理屈の句しか生まれず所詮はことば遊びの世界に陥ります。虚子選と青畝選との違いについて知ることもまた学びの一助になるかと思います。
高浜虚子先生の選
虚子先生の場合、添削して採られるということはまずなくただ丸印がつくだけだったと聞きます。当然ながら丸印のつかないものは没です。当時のホトトギス虚子選はとても厳しくベテランであっても至難の道で赤星水竹居著「虚子俳話録」によれば一句でも入選すれば赤飯を炊いてお祝いするくらいだったそうです。なんとかして虚子選に入選するべく必死に切磋琢磨されたのでしょう。句会の席上では入選句のよいところを説明されることはあっても没句の欠点等に触れられることは皆無であったそうです。
阿波野青畝先生の選
青畝先生の場合は、未熟な作品でも添削して採ってくださいました。選んでくださる作品の傾向ははっきりしていて世俗的で陳腐な素材や言い尽くされた月並みな視点の作品はたとえそれが合格レベルのものであっても決して入選することはありませんでした。
私は青畝選にぶつける作品は先生に挑戦するという気持ちでいつもホームランか三振かという冒険句を投稿するようにしていました。当然ながら圧倒的に空振りの三振が多いのですがごくたまに入選したときの喜びはそれこそ万歳三唱の気分でした。ことばの魔術師といわれた青畝先生の添削にはただただ唸るばかりでたった一文字でたちまち佳句に変貌するさまは実に圧巻でした。
どちらが正しいのか
直してまでは採らない虚子選。作者の感興が確かであれば添削して採る青畝選。その是非判断は難しいですがホトトギス系の指導者は概ね虚子方式を継承しておられるように思います。当然ながら青畝師の薫陶をうけた指導者は青畝選方式に近いのでは…と私は感じています。作者の個性を第一に育てるということを重視するなら虚子選方式がいいのかもしれませんね。ただ単期日のうちにある程度のレベルにまで育てるのであれば青畝方式の方がよいということになろうかと思います。