正しい俳句鑑賞法
句意を直訳しただけでは鑑賞とはいえません。隠された作者の小主観を探って連想を広げてみましょう。どのように連想するかが鑑賞者の個性だともいえます。
“多分・・・だと思う。”
という曖昧な鑑賞ではなく明確に断定します。なぜそう感じたのかという具体的な根拠を見出して鑑賞することが大切です。鑑賞に絶対正解はないのですからどう解釈しても自由です。的外れを気にせず大胆に連想をひろげてみましょう。
俳句鑑賞のポイントは季感を見極めること
俳句は季感が命です。何よりも先に一句の中の季語が何であるかを見極めることが最も重要です。上級者の作品の場合必ずしも “引用されている季語=季感” ではない場合もあるからです。一例として子規の作品を揚げてみましょう。
あたゝかな雨が降るなり枯葎 正岡子規
「あたたか」は春、「枯葎」は冬の季語ですから「季重なり」ですね。でもそんなことは百も承知の上であえてこのように詠んだ子規の心持ちを探ってみましょう。この句をどう鑑賞するかは鑑賞者に委ねられるのです。
一部の歳時記では冬の句(枯葎)として扱っているものもありますが子規はこの作品を春の句として分類しているそうです。もうすぐそこまで春がやってきているよ…という春隣(冬の季語)の感じに鑑賞したほうが情があるように思いますがふと雨の温かさに気づきそういえばもう春なんだな…という感慨に受けとることもできます。春の句として鑑賞するならば後者になります。
どちらかが正解で他方は間違いということではありません。ただ「あたたか」が使われているから春だ、いや枯葎と言っているのだから冬だ…というあんばいに言葉に縛られて文法的な議論を展開するのではなくて作品から伝わってくる作者の実感を共有するのが正しい鑑賞だと私は思います。