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見えないものが見える俳句眼
家内の実家(広島)から徒歩五分のところに大先輩の波出石品女さんがいらっしゃるので帰省して時間があるときは必ず存問しています。おしゃべりの中でいろいろな青畝先生の逸話が聞けるからです。過日もこんなお話を聞いてきました。
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虚子選と青畝選の違い
三千の俳句を閲し柿二つ 子規
私の尊敬する虚子先生と青畝先生は正岡子規の流れを汲む師弟関係になるのですが作風は少し違うところもあります。けれども多くの弟子を導き優れた俳人をぞくぞくと育てられたという指導者としての実績には共通点が多いです。その特徴は作者としての御自身の流儀を押し付けるのではなく
“個性を見出してそれを伸ばす”
という指導法にあります。
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良い俳句を授かるための心構え
俳句は作るものではなく授かるもの
これは青畝先生や紫峡先生から繰り返し教えていただいた確固たる作句理念です。語彙力がないから…表現力やテクニックが難しいから…といって学びを諦めてしまう方もおられますが、
ちょっと待って!
と言いたいです。確かにそのような要素も必要ですが良い俳句を授かるためにはそれらよりも大切な心構えがあるからです。
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俳人与謝蕪村
菜の花や月は東に日は西に 蕪村
青空文庫で正岡子規著「俳人蕪村」を読みました。少し読みづらいですがとても興味深い内容です。この中で子規は、俳人蕪村を礼賛し「俳諧を論ずるうえで芭蕉が別格的存在であることは認めるが、やや過分ではないだろうか。俳人蕪村は、決して芭蕉に劣るものではなく、むしろ匹敵する。」と言っています。冒頭に書かれている「緒言」を抜粋してみましょう。
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感覚として季語をとらえる
初学の段階では “ことばとしての季語を覚える” のに懸命ですが吟行で句を詠む習慣が身についてくると “感覚として季語をとらえる” という事が理屈ではなくて実感として理解できるようになります。例えば今は秋だから…と頭で考えて「秋風や」と詠むのではなく吹く風に佇んでふと秋を実感したのなら「風は秋」という表現になるはずです。
「秋の山、秋の牧」と「山は秋、牧の秋」との微妙な違いがわかるでしょうか。後者の表現には佇んでいる作者の存在が感じられます。知識として覚えた季語を頭で考えて作句している段階ではこのように詠むことはできません。季語の本質を理解しかつ実感としての感興が身についていなければ感動した実景を正しく伝えることはできないからです。
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